欲望会議 「超」 ポリコレ宣言
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感想
良い
内容メモ
序
著者は哲学者 (千葉雅也)、AV 監督 (二村ヒトシ)、彫刻家 (柴田英里) の 3 人
ポリティカル・コレクトネス : マジョリティからマイノリティに (特にヘテロ男性から女性や LGBTQ に) 向けられる偏見や抑圧に対抗し、マイノリティをエンパワーするという理念
現代におけるポリコレ的な要求の一部は、ポリコレの理念に反しているのではないか
「いかに他者と共に生きるか」 という倫理的問題を真剣に引き受けるために、ポリティカル・コレクトネスの再発明が必要
著者が共通に問題にしているのは 『「積極的に」 生きるとはどういうことか』 ということ
欲望とは積極性であり、積極性とは 「肯定」 → 欲望とは、肯定すること それは何らかの 「否定性」 としぶとく付き合い続けることを含意している (逆説的に思えるかもだが)
一切の否定性を退けてポジティブに生きようとするのではなく、「何らかの意味で、否定性を肯定すること」 が必要なのではないかというのが、著者に共通するスタンス
現代における主体性の大きな問題は、否定性の排除、否定なき肯定 葛藤が展開する場としての 「無意識」 がしだいに消滅していく、という事態としても捉えられる 1 章 傷つきという快楽
(二村) 男性向けのポルノの影響で一部の男性のセックスが暴力的・男尊女卑的になっているのではないかという話があるが、類型的な少女漫画も女性を受け身にさせているように思える 男性も女性も、自分の欲望にしたがってもっと性的に自由であるべきではないか?
他者の人権を侵害しない限りにおいて、アブノーマルでもなんでもエロいセックスを対等に楽しんで自己受容感を高めて、みんな幸せになる方が良い 多くの男女が 「支配されたい・したい」 とか 「暴力的に扱われたい・扱いたい」 という欲望を隠し持っている
(千葉) エロスが発動するためには、非対称的に踏みにじったり踏みにじられたりする感覚が少しはある 相互にアクティブになることと、非対称な関係を結ぶことは、きっとエロスにおいては矛盾じゃない
どちらの面も必要
これはエロスに限らず 「自律性と独立性は別物」 という話に近い気がする nobuoka.icon (柴田) SNS で自分が炎上しているとき、自分を叩いている人の偏見や蔑視が露呈したり、個人的な感情が見えると気持ちよくなる (二村) 弱者の被害などに対して、同情や共感の域を越えて自分自身の心の傷を投影しすぎてしまい、悪を叩くことが絶対正義だと思い込んで興奮し、攻撃的言動に走る人たちが、世の中にはすごく多い
それに対して 「それはただの感情だ」 ということで炎上する
自分自身が 「アブジェクト (棄却すべきもの)」 になることで、他者の 「アブジェクション (自身と融合した状態にあるおぞましいものの棄却)」 を引き起こし、その恐怖と欲望を盗み見るような快楽
(二村) 過剰なエロに恐怖を感じる人もいる。 ポルノとホラーは繋がっているように感じる 怖くなるほど女がイキすぎている AV 作品が結構ある 変態ごっこをしていること自体に興奮するというのはある
AV 女優が彼氏とのセックスではオーガズムを味わえないが、撮影だと AV 女優という役割を演じることでイキまくれる、とか だからといってそれが演技というわけではない
(千葉) 本当とウソを超えるところにオーガズムがあるということではないか
ひとはフィクションとトゥルースの間で揺れてしまうが、オーガズムはポストトゥルース
テクスト的身体と距離を取る能力が欠落している
本当でもウソでもいちいち傷ついてしまうから、本当もウソもやめて欲しいということではないか
オーガズムとはポストトゥルース (本当とウソを超えること) だから、すなわち、本当とウソという二元性が破壊されることが怖い 本当とウソという二元性自体が破壊されることは、一番自分の存在が揺さぶられること。 それを恐れている
(柴田) 性嫌悪のフェミニストの批判にも、フェミニズム理論と感情の間の揺れ動きがある。 その拮抗自体がオーガズム的
妊娠のクィア化とクィアの異性愛再生産化が同時に起こっていて、女性性と妊娠・再生産の結びつきの更なる強化という問題が出てくる それを無視して LGBTQ と接続すると 「マイノリティも家庭を持って、再生産に貢献しながら社会で健全に生きていきましょう」 という保守化の礼賛に繋がる、という批判 似たような話として、同性婚を認めることは婚姻 (さらには家の概念) を礼賛する流れに繋がりかねないから、先に (性別に関係ない) パートナーシップ制度を整えるべきでは、みたいな話もある nobuoka.icon 三次元の女に無関心な男性オタクやゲイの、とりたてて女にやさしくしないマイナス方面での男女平等な態度がミソジニーとして批判されるたびにそう思います。マックスに理想のパートナー像を求めながら、同時にそれを恋愛的な関係性であってはならないとする思考の背景には、恋愛というのは男性と女性のリレーションシップであり、下心なく愛の結晶としてセックスがあるというようなピューリタン的な考え方が潜んでいるように思える フュリオサのように 「自分が虐待されていたことに気づいて怒る」 のは大事だし必要だと思うんですよ。 自分を取り戻すために、自分を傷つけていたものに対しては怒るべきです。 でも怒りの永久機関みたいになってしまうことは、本人を救わ 2 章 あらゆる人間は変態である
東日本大震災以後に、むき出しにされてしまった我々の実存に対して、いったい誰が責任を取るのか 責任を取らせることができる人間はいるのか?
ある種の無責任性も認めてよいのか?
自然の偶然性でもある
偶然性は合理性の否定だから、理性的動物としての人間には耐えられない 災害にも理由を求めたい
権力への闘争としてのポルノ
「女をいじめるような漫画を女が描くのはけしからん」 という根深いフェミニズム的な観点は女性の欲望を矮小化してしまうと思う 女が凌辱されるものを中心に描いており、女性ファンが多い 人間が追及すべき正しい方向性と、退けるべきまずいことは、一線を切り分けるべき、とされている
破壊衝動の欲動があるからこそ、注意しながら密かに倒錯することが必要だと考えている 揺るぎない境界線を引いてしまうと、そういうふうに揺らぐことすら許されない
昔は心の闇に隠し持っていたことをインターネットサービス (2 チャンネルなど) に書くようになった 見たくない、というのは、「あなたの無意識を私の無意識にしないで」 ということではないか
過剰な関係妄想に対しては、 図々しいと一蹴することも必要だと思う
下にも書いてるけど、これが本当なのかは怪しい気がする nobuoka.icon
何が素晴らしいかというと、主人公の少女がレイプされるシーンの演出が、非常にグロテスクでありながら、主人公を演じる子役に撮影のトラウマを与えないようなしかけになっている 3 章 普通のセックスって何ですか?
『デトロイト』 という映画では、「黒人と白人女性」 対 「白人男性」 という描かれ方 被抑圧者から抑圧者への批判しようがない反撃
善悪をはっきり決めてしまうと、かえって断絶を深める
弱者のための運動にとっても保守政権にとっても、メッセージが明確な映画のほうが都合がよい
青少年女子の性被害においては、露出狂被害以外の被害経験は性のイメージにプラスの影響を与えている 日常的に性的客体として位置づけられる女子にとっては、深刻な影響がない限り、性的対象物としてみなされることは価値を認められるからだと調査者は結論付けている
仲がよすぎて友達みたいになっちゃったカップル (男女、同性同士問わず) や夫婦がセックスレスになるという話 2 人の関係が昼間の社会の側に回収されてしまうから?
コミュニケーションって、共通化するということですからね。 だから、コミュニケーション自体に警戒しなければいけないし、僕は無関係が大事だと抽象的なことを言うわけですよ。 やっぱりいま、文学は滅びそうになっていると思っていて、それはコミュニケーション優位になっているからですよ。 文学が持っている言語そのものの自閉的側面はどんどん失われている。
セックスも無慈悲な戦争機械の面を持つ。 コミュニケーションに飲まれるとセックスも蒸発する
女性にアクティブにセックスしてもらうためには、女性の主体性が重要になる。 こちらのやりたいことが先方のやられたいことになり、向こうのやりたいことがこちらのやられたいことになるためには、ちゃんと目と目を見て、相手の欲しいものを
二村 : ただ、話を聞くに、どうも世の中のヘテロでノーマルとされている多くの男性も女性も、あんまり相手の目を見ないでセックスしている。 むしろ変態の人のほうが、変態行為は度を超すと危険ですから、そうならないように相手の反応を繊細に見ている。 過激化するときは相手とフュージョンしながら過激化していく、自分勝手に盛り上がらないように、ということがある。 ノーマルな女性は恥ずかしくて目をつぶっちゃうことが多いし、ノーマルな男の多くも相手の心にダイブしていく快感を味わってない。 一般の男性は快感の追求が甘いから、貧しいセックスしかしていない。 それは一方向的になるわけですよね。だから、相手を傷つけてしまう。それは快感の追求が足りないからですよ。
二村 : そうですそうです。わかってくれて、ありがとう。
千葉 : 快感を追求したら、自分自身が受動的な立場に立ったり、もっとリバーシブルな関係に絶対向かっていくわけです。
二村 : 男性相手にタチになることも可能な女性がエロいのは、そこなんですよね。 曖昧戦略というものが持っているラディカルさが、日本的な 「なあなあ」 の中に回収されていくのかと思ったときに、これはもう、被差別者であることを引き受けて前に出ていくほうが、よっぽどイライラしない
柴田 : 私は、見たくないものがあることには耐えるべきだと思う。
千葉 : ある程度ね。
一九世紀イギリスのヴィクトリア朝下では、ヒステリー患者とされた女性に対して、医者はバイブでイカせることを治療としていた
アメリカの薬局で女性用のバイブが売られているという話
治療になるのか? nobuoka.icon
4 章 失われた身体を求めて
近代は、自然科学の発展により、自分が変わらずとも頭を使えば真理に到達できるとされる 自分が変わらずに世界だけ革命できると考えるのはダメな革命家 (世界を革命したら自分まで革命されるはず)
男が 「女、死ね」 と言うのはミソジニーだしダメだが、女が 「男、死ね」 と言うのはミサンドリーではあるかもしれないが、「男から抑圧されている女たちの抵抗の言葉として正当化される」 という考え 女性専用車両を男への差別だとして女性専用車両に乗り込む男たちと、男性向けのポルノは女性差別だから規制すべきと言っている女性たちは同じ病? → そういう発言をすると一部のフェミニストから怒られが発生 外れた部分を挽回するとは、傷を自分の傷として引き受けて、傷の意味を考えること
なかったことにするとか見返してやるとか敵認定した相手を憎み続けることではない
性的な空間とそうでない空間の区別
異性愛者が同性愛者のことを嫌がるのは、あるべきでないところに性的な関係が想定されるからではないか そもそもの 「性的な空間」 と 「性的でない空間」 を区別するということ自体がどうなのか、という
物事は見ようによっていろんな角度から様々にとらえられる、というのが 1980 年代、1990 年代のポストモダンの発想 それだと確実に言えることがなくなる、というのが自然科学からの批判 解釈は動かせても事実は動かせない、というのが社会科学からの批判 過激な人文系の人は事実が事実であることすらよく考えると危うい、という議論をする
日本の #MeToo は個人の体験もエビデンスであると主張し、「これは私にとってはセクハラだ」 というひとつの解釈だけを是とする 身体によるセックスではなく、社会的なイシューを使ってセックス的に興奮する
恨みつらみ、ルサンチマンに基づいて群れることで、強者よりも強くなる 強者は、立場としては弱くて、畜群によって圧倒され続ける
時代全体が、身体を喪失している
その中で、身体を失ってしまった人間が右往左往している
セックスの喪失というのも、それぐらいマクロな視点で考える必要があるのではないか セックスの回復ということがあるとしたら、それは身体の回復だと思う
終章 魂の強さということ
普遍的な禁止をかけると、そこから逃れる暴力はより悪魔的なものになる。 僕としては、世の中からあらゆる暴力をなくすことなんて絶対無理だから、普遍的禁止を敷かないほうがマシだと思っています。
だから柴田さんが言ったように、#MeToo は、交換の論理なんですよ。 言い換えれば、グローバル資本主義の論理であり、ドゥルーズ+ガタリの言葉を使えば 「脱コード化」 だということになる。